2009年1月23日金曜日

1/23 Today 八甲田山「死の彷徨」が始まる(1902)

八甲田雪中行軍遭難事件 - Wikipedia: "八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡する、日本の冬山登山史上もっとも多くの遭難者が発生した事件となった。

第1日(1月23日)
午前6時に青森連隊駐屯地を出発。田茂木野において地元村民が案内役を買ってでるが、これを断り地図とコンパスのみで厳寒期の八甲田山走破を行うことになった。途中小峠まではさしたる障害もなく進軍できた。しかし、大峠付近にて天候が悪化し、ソリ隊も遅れはじめたことから、大休止を取った。携帯した食料類は凍りついてしまい食事を取らない兵士が大多数を占める事態となった。装備の不安と天候がさらに悪化することを恐れ、駐屯地への一時帰営を協議したが下士官などの反対により、行軍を続行することになる。
風雪をやり過ごしながら馬立場(大峠より2km)まで進軍した。ここから積雪量が格段に深くなり、行軍速度が落ち、食料と燃料などを積んだソリ部隊は本隊より1時間以上遅れることとなった。神成大尉は第2、第3小隊計88名をソリ隊の応援に向かわせると同時に、設営隊15名を田代方面に斥候を兼ねた先遣隊として先行させた。夜6時、鳴沢付近でソリの放棄を決定した。ソリの荷物については、各隊員が分散して持つこととなった。このとき炊飯用の銅釜を持たされた兵士が一番悲惨だったという。先遣隊として先行していた設営隊も進路を発見できず、道に迷っていたところを偶然にも本隊と合流した。夜8時過ぎに田代元湯まであと1.5kmの平沢の森まで進出するが、日没により前後不覚となり田代方面への進路も発見できなくなった。そのため、これ以上の行軍は不可能と判断し雪濠を掘って露営することとなった。"


大将がアホだと部下がたくさん死ぬ。

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